厭世日誌

だなはのいせんじはみしなかみしるく

生活・共有・猜疑

 

誰かと生活を共有する事や、其処彼処に自分以外の匂いを感じる事はとても新鮮な感覚で、精神の共有だとか思考の違いだとか、「求めていたはずのもの」さえ微睡んでしまう程に、揺らいでいる。
「おかえり」や「ただいま」が有る事さえ、当たり前に感じる様になってしまった。
今は安定剤をツマミに酒を煽っているが、そんなのももう当たり前で、こうして段々と退屈と慣れに塗れてしまうのだろうかと考えると時折無性に泣きたくなってしまったり、どうにか隣人には思い遣りと気遣いを忘れないでいたいと思ってはいるが、それすら分からなくなってしまったりする。
それでも赦してくれる人はいつか、自分自身が穴の開いた水槽に水を注ぎ続けていた事に気付いてしまうだろう。そうなれば、先は見えている。
身勝手で烏滸がましい事だと言う事は自分でも分かっている、けれど、どうか飽きないでくれと願ってしまう。クソッタレの様だ。
生活リズムは狂っていくばかりで、このまま何時まで続けるのだろうと、物悲しさは拭えない。虚しさは際限なく募っていく。
昼前に眠って夕方過ぎに目を覚ます。働いて繰り返す、ルーティーンは続く。
毎日の様にみる夢は相変わらず悪夢ばかりで、いくら眠っても体の疲れはとれず、今の生活が精神だけに留まる事無く身体にも影響を及ぼしているのが自分でも手に取るように分かる。
朝目が覚めると横にいる人が誰かも分からず、眠っていた自分の部屋がどこなのかも分からず、不安に苛まれる、理由も無く、ほんの少しの間無意識に泣いてしまう様な事も少なくない。暫く経てば漸く、自分自身や隣人の事を思い出すと途端に安堵する。
無論この生活に退屈を感じてしまうのは私だけではないだろう。それでも、優しくしてくれる隣人には頭が上がらない。
せめてこの人を傷つけないよう、呆れさせないようにと不安に怯えながら共同生活をする様は滑稽だな。
静謐な一時を他者と過ごせたらどんなに安心するだろうか。

「この人となら」と思えば思う程に「怖い」と感じてしまう。

猜疑は捨ててしまいたい。 守りたいと思うものが増える程に、どうしてだろう退屈な日々だけが過ぎていく。