厭世日誌

だなはのいせんじはみしなかみしるく

To early to end

友人であり、兄のような、いや、本当の家族よりも家族だった、そんな人間が自ら命を経った。

4月末。訃報を受けてから、ずっとどこかで嘘なんじゃないか、本当は生きていて、池袋あたりで偶然出くわして、「おお、久しぶりじゃん」なんてあの抑揚のない特徴的な声で、少し嬉しそうに話しかけてくれるような気がしていた。

先日、その友人(以下Kとする)の追悼イベントがあった。私が写真を撮るようになったきっかけはKのバンドだった。イベントの写真を撮り終えて納品してから、ああこれで本当に終わってしまったのだと、空虚感に襲われている。どうしようもなく、寂しい。会えないことが。会えなかったことが。私や、彼の周りの友人たちでさえ、抑止力にならなかったことが悲しくて、虚しい。彼が苦しいまま自ら命を絶ったことに対して「楽になれてよかった」と思えない自分が嫌になる。

Kとは、私が家出した頃に数週間ほど一緒に住んでいた。携帯の充電が切れて、深夜の池袋で途方に暮れていた私をKが探し回って見つけてくれて、それから、暫く一緒にいた。一緒に住んでいた期間は長くはなかったけれど、一つ一つ、鮮明に思い出せる。シャンプーの匂いも、髪を乾かさないと少し怒りながら乾かしてくれたことも。

常に何かに追われているように焦っていて、死にたいとこぼし、家庭環境のトラウマからか、性依存症とも言えるほどの女好きで、それでも私にとっては兄であり、人生を救ってくれたヒーローだった。

どんなに呆れても、やっぱり彼は私の人生を大きく変えた人間だし、彼がいなかったらのたれ死んでいたかもしれない可能性は大いにある、だから、恩人だから、失踪しようが、痴話喧嘩に巻き込まれようが、憎めなかったし大好きだった。

Kは人と人をよく繋げるやつだった。私もKが繋げた縁が巡り巡って今、仕事になっていることもたくさんある。

Kとは年に一度しか会わないような時もあったけれど、それでも私の奥深くにKは存在していた。失踪した時は、しょうがないやつだよ、あいつは、なんて周りにこぼすこともあったけれど、でも、やっぱり暫くして帰ってきて会えた時には心底安心したし、Kちゃん、Kちゃんと言って甘えていた。満更でもなさそうに笑う顔が忘れられない。

誰かが自ら命を絶つたびに、怒っていたKが自らその選択をしたことが、私にはいまだ信じられない。どう受け入れていけばいいと言うのか。受け入れる必要があるのかもわからない。折り合いがつけられるとも思えない。

共通の知人であり、私が勝手に師と慕っているSは、Kの親友だった。「君も、俺も、折り合いなんて一生つけられない。きっと、背負っていくものになる。だから、俺たちは今を残すために写真を続けるんだよ」と、涙目で語っていた。

14年、14年間。一生のうちで見たら短いかもしれない。それでも時間以上の関わりが、繋がりが私たちの間にはあったと思う。たくさん呆れた、怒った、でもKが私に怒ることは少なかった。かっこいい先輩でいようとしてくれた。かっこ悪かったけどね。それでも、ヒーローだったよ。誰がバカにしても、Kのことを知らない人が悪口を言っていても、私にとっては最初の思い出が、最初に人生を救われたことだったから。

もう会えないのが寂しい。憎まれ口叩いてごめんね。全部楽しかった。池袋も秋葉原お茶の水も大塚も新宿も全部全部、思い出が詰まっている。音楽だって、いろいろ教えてもらって、いろいろ教えて、たくさん話した。緑色とオバケが好きなやつ。意外と可愛いもの、好きだったね。ラーメンもいっぱい食べたね。

正直、お金のことなら言ってくれれば、私はきっと自分の貯金を少し渡しただろう。今になっていってもしょうがないし、格好つけたがりだから、そんな話はしなかったのだろうけど。

最後に会った時、どうして、私は彼と約束をしなかったのだろう。生きていてさえくれれば、生きてさえいればそれでいいのに。寂しい。夢でいいからもう一度会えたらいいのに。LINEじゃなくて、言葉で、ありがとうって伝えたかった。