厭世日誌

だなはのいせんじはみしなかみしるく

神さまという言葉は喉で行方不明に

人混みは怖いから、山や海へ行く。人のいないような、山や海。自然との対話は、ただそこにある木々や波を見つめるだけでは成立しない。海の女と、山の男の間に生まれた私は、海でも山でもない、北京という大都会で育った。厳密には数年間をそこで過ごしただけだけれど、子供の頃の数年間、それも思春期となると、私にとっては大きなものだった。山や海は無く、それどころか、子供たちだけで外へ出ることも禁止されていて、小学生だった私たちはタワーマンションの中にある温水プールや公園で遊んでいた。今思うと、遊び盛りにはあまりにも狭い空間だったと思う。タワーマンションには百貨店が併設されていて、その百貨店の中の食品売り場でコカ・コーラを買い、これでもかというくらいにそれを振って、振って、振りまくっては壁に投げつける、投げつけて、コーラの缶から噴き出る飛沫を見て、大笑いするような、そんな遊びばかりしていた。通学バスから見える溝川を眺めては、魚がいるとかいないとか、そんな話をしていた。あんなに汚染された川にも生き物は暮らしていたのだろうか。ともかく、大人になった今、山や海に惹かれるのはその時の反動なのかもしれない。そういえば、帰国後公立の中学校に馴染めず不登校になり、高校に上がったものの数ヶ月で中退し、すぐに上京したけれど、いつも「帰る」のは実家ではなく、祖父母の家がある山梨だった。電車から降りてすぐに周りを囲む山々が、初めての一人暮らしに戸惑い山梨に逃げる私の心を落ち着かせた。排気ガスの匂いもなく、夜は静かなばかりで、祖父母は金髪に脱色した私の髪を見て「黒い方がいいじゃん」と言いながらも、快く迎えてくれた。当時は祖父の足腰もしっかりしていて、三人で出かけることもできたけれど、数年前に夫と帰った時には、祖父の方はだれかの腕を掴んで、ゆっくり歩くことしか出来なくなっていた。祖母は相変わらず元気だけれど、耳が年々遠くなっている。ありがたいことに、夫は私の祖父母をとても大事にしてくれる。二人で山梨に帰ると、私よりも早く起き家事手伝いをしていることがあるくらいだ。彼は時々、山梨に行きたいな、と呟いている。次はいつ帰ることができるのだろう。祖父から電話がかかってきて「けえってこーし」と言われるたび、帰りたい気持ちに押し潰されそうになる。このまま会えなかったらなどと、悲観することもある。私の帰る場所は山梨なのだ。ここのところ抱いている山への憧憬は、子供の頃の反動だけじゃなく、祖父母への気持ちから来ているものでもあるのだろう。一刻も早く、世界が穏やかになるといいと思う。