厭世日誌

だなはのいせんじはみしなかみしるく

incinerator 1

人間に対して愛を与えられているかどうかは全く自信がないけれど、今まで一緒に過ごしてきた生き物達のことだけは、愛していた、いや、愛していると、自信を持って言える。
2021年2月24日、家族であるフトアゴヒゲトカゲのチョビが永眠した。余りに突然の死だった。
いつものように、旦那とわたしが珈琲を飲んでいる間、彼女(チョビは雌のトカゲだった)は窓際で精一杯身体を広げて日光浴をしていた。
いつものように、餌を取り出すと走り寄ってきて、強請るようにピンセットの先を見つめていた。
いつものように、餌を食べて、いつものように、彼女の定位置であるシェルターの上に戻っていくはずだった。
ケージのドアを閉めてから、横で読書をしていると、呼吸音とも声とも言えない奇妙な音がして、中を覗くと先程与えた餌をチョビは全て吐き出していた。
日光浴に励んでいた昼間の姿からは想像できないほどにぐったりして、腕はだらりと伸びている。時々大きく口を開いては、苦しそうに息をする。
余りに突然のことだった。爬虫類は天敵が多く、死ぬ寸前まで体調不良を隠すというのは有名な話だけれど、まさかこんなに急ではないだろう、餌を喉に詰まらせただけかもしれない、第一、数ヶ月前の健康診断では健康そのものだと言われていたのだし……。
ともかく、悠長に様子を見ていられるほどの余裕はなさそうだった。彼女の行動からは、明らかに死の匂いがしていた。
電車で30分ほどの距離にあるエキゾチックアニマル対応の動物病院に電話をして事情を話すと、初診にも関わらず、すぐに見てくれると言う。
病院に連れて行くべく持ち上げたその身体には全く力が入っておらず、いつもはわたしに捕まるのを嫌がって振り回す尾も、今は枯れ尾花のように力なく垂れ下がっている。
ケージから出しても、相変わらず、口を大きく開けたり、目を細めたりしながら、浅い呼吸を繰り返している。旦那に電話をすると、とにかく落ち着いて、病院にすぐ行きなね、と励ましてくれたが、チョビはわたしの家族であると同時に、彼の家族でもある。子供のいないわたしたち二人にとっては、チョビが二人の子供のようだった。生後二ヶ月の頃に引き取ってから、毎日を一緒に過ごしてきた。彼も職場で心細く、辛く、居ても立っても居られなくなっただろうと思う。
がんばれ、がんばれ、と声をかけながら、チョビをキャリーバッグの中に入れ、クレジットカードと現金、携帯電話だけを持って外へ出た。
2月の夜はまだ寒くて、変温動物である彼女の体温低下を心配しながら、出来るだけキャリーバッグを揺らさないように駅までの距離を全力で走った。
走りながら、これは悪夢なんじゃないかと、いつもの明晰夢みたく、“おまじない“で目覚められるのではないかと、走りながら何度も何度も“おまじない“を試したけれど、現実だった。
動物病院の最寄り駅についたら直ぐにタクシーに乗らなければ、と、タクシー会社に電話をしたが、北口ですか、南口ですか、と聞かれ、滅多に降りることのない駅の北口と南口がわからず、とにかく36分に駅に着くので、着いたら直ぐに○○病院へ向かいたいんです。駅の出口はごめんなさい、わかりませんと繰り返すわたしに苛ついたのか、電話口の老年の女性は「サヨナラ」と言い放ち、一方的に電話を切ってしまった。
幸い、旦那が義両親に連絡を取ってくれ、動物病院の最寄りの駅が義実家の近くだったこともあり、義両親が迎えにきてくれることとなった。他人との干渉を嫌がるわたしに遠慮してか、義母は私たちが結婚してからも個人的に連絡先を聞いてくることもなかったし、無理に会おうともしてこなかった。仲が悪いわけでは無いとはいえ、時々お土産もののやりとりする程度のドライな関係であったから、こんな時ばかり頼るのは心苦しかったけれど、これからすぐに家を出て動物病院の最寄り駅まで車で迎えに来てくれると言う。
電車を待っている間に、駅のホームにある小さなコンビニエンスストアでカイロを二つ購入し、キャリーバッグの底へ入れた。少しだけでも、彼女……チョビの身体が温まるといいと思った。
電車に乗り込み、人の目から庇うようにしてキャリーバッグを覗くと、さっきは開いていなかった眼が開いている。もしかして、やっぱり、食べ過ぎて吐いただけなんじゃないかと一瞬、安心しかけたけれど、そんなわけがないのはわかっていた、けれど、そうでも思わないと、心細く、わたしを取り巻く空気の薄さに耐えられそうになかった。
電車でたった数駅、30分弱の距離があんなにも長く感じた事は今までに無かったと思う。
駅に着く直前に義母から連絡が入り、道が混んでいてなかなか駅まで辿り着けないという。大丈夫です、走ります。と簡潔に返信をし、電車を降りると、家から駅まで走ったのと同じように、なるべくキャリーバッグを揺らさないように気をつけながら、何年も前に数回訪れただけの、知らない街を走った。念のため電車の中で道は確認していた。全力で走れば、10分で着く距離だった。とはいえ、カイロが入っているにしても、2月の夜のこの寒さだけで、変温動物であるチョビはかなり体力を消耗するだろう。それだけが心配だった。
途中、もともと痛めている膝の激痛に耐えられず、走るのを諦めて歩いていると、後ろからわたしの名前を呼ぶ声がした。義母だった。見つけてくれたんだと、ホッとした。車に乗り込んでから、わたしは人がいると戯けるようなところがあるから、仕切にトカゲちゃんは大丈夫?と訊く義母に、大丈夫です、食い意地が張っているので餌を喉に詰まらせただけかもしれません、などと言いながら、内心は気が気でなかった。
病院に到着して、受付の女性に声をかけ、先程お電話いたしました、フトアゴヒゲトカゲと、飼い主の○○ですと伝えると、すぐに問診票を渡された。
“チョビ、4歳、雌、餌はグラブパイと小松菜、茹でたニンジン、カボチャ。病歴、無し。無精卵、無し。夕方まで元気に走り回っていた。餌を与えてから突然吐き戻し、呼吸が浅くなり脱力。舌の色が白く変色している。“
そこまで記入して、受付の女性に問診票を返す。義母が隣に座り、話しかけてくれる。トカゲちゃん、大きくなったのね。苦しそうだけど、大丈夫かしら。きっと大丈夫です。だってまだ4歳なんですよ。平均寿命は8歳と聞きますから……。そういえば、マロちゃんとグリちゃんも亡くなったんですよね。寂しいですね。そうね、でも、グリは20歳だったし、マロももう15歳だったから。ただ、立て続けだったから、大変だった。ああそうだ、話は変わるんですけど、うちのアパートに猫が住んでるんです、気づいてました?ああ……あの疥癬の子。何回か見かけたけど病気、持って帰っちゃうかもと思って。もう疥癬、治ったんですよ。誰かが薬を与えていたみたいで……。そうなの、あら、これお家?誰が立てたのかしら。ふふ、おかしい。トカゲちゃん、まだ苦しそうね……。ええ、でも、爬虫類は強いので、きっと大丈夫です、きっと……。あ、この間豪徳寺に遊びに行ったんです、豆猫のお守りを買ってきて……、今日は急いでて持ってこられなかったんですけど、今度会った時、よろしければ受け取ってください。あら、いつもありがとう……。「○○チョビちゃん、診療室へお入りください。」人当たりの良さそうな獣医師に呼ばれる。チョビ、行こうか、とキャリーバッグの中でぐったりしている彼女に声をかけ、診療室へ入る。
おかけください、と言われる前に、キャリーバッグごと、獣医師に渡す。獣医師は「出したり入れたりしてしまうと、チョビちゃんに負担がかかりますから」と、まずはわたしに状況の説明を求めた。理路整然と物事を伝えるのは苦手だけれど、一つ一つ順番に思い出して、伝えるべきだと判断した事は全て伝えた。わかりました。と獣医師は頷くと、キャリーバッグのジッパを開いた。開いて直ぐ、近くで作業をしていた看護師に「急いで熱い湯たんぽ二つ」と声をかける。タオルに包まれた湯たんぽの上にチョビが力なく横たわる。この数年間で一度も見たことがないほど喉を黒くさせ、明らかに怯えを含んだ目で診療室を見渡している。フトアゴヒゲトカゲは空間把握能力が高いから、部屋の中をよく散歩させてあげてね、と言っていたのは、チョビを譲ってくれたブリーダーだった。いつもは好奇心に満ち溢れた眼で部屋の中を走り回るチョビが、こんなにも怯えた眼で世界を見つめるのが堪らなく悲しかった。身体が少し温まって動く気力が湧いたのか、診療台の上から逃げようとするチョビに、獣医師はごめんね、我慢してね、などと声をかけながら、体重を測ったり、口内を覗いたりしている。
通常、私たちはトカゲを診る時、特に身体と床との位置を気にするんです。元気があれば、お腹は床にぺったりつきません。こんなに、匍匐前進の様にして逃げようとするなんて……。それと、顔、顔ですね。顔の位置。通常は上を向いています。なんとなくわかると思うんですけど……。ああ、そういえば、そうですね、いつも少し上を向いているような気がします。ちょっとわたしも、ここまで具合が悪そうなのは初めてで……。私は目の前のチョビの様子に狼狽するばかりで、マトモな受け答えを出来ずにいた。舌の色、問診票にも書いていただいたんですけど、これは貧血だと思います。呼吸も浅い。血液が循環していないんですね。チョビちゃん、もう少しがんばってね……。獣医師は、チョビに負担をかけないよう気遣いながら、引き続き様子を見ていく。
正直触診だけではこの状況の原因はわかりません。病気なのかどうかすらも。ただ、血液検査、レントゲン、エコー検査。これらを利用して、ある程度どこに異常があるかを調べることはできます。それなりに費用もかかりますが……。受付の方で見積もりを出しますから、少し座って考えていただいて。またお呼びしますから、一旦、待合室でお待ちください。チョビちゃんも一緒に。ね、チョビちゃん、と、獣医師はチョビを励ますように声を掛けた。
わたしの中では、もう、何万円だって構わない。5万円でも、10万円でも、その倍の倍だって、お金なんかどうにかなる。いくらだって払うと決めていた。待合室に戻ると、受付の女性は直ぐに見積もりの書かれた用紙を渡してくれた。
エキゾチック初診料 ¥3,055
レントゲン検査 2枚 ¥8,800
超音波検査(腹部) ¥8,800
血液検査(トカゲ) ¥16,668
お見積もり金額 ¥37,323 内消費税 ¥3,393
たった数万円でチョビのこの病のこと……、病かは定かではないけれど、ともかく、少しでも何かがわかるのであれば、安いもんだと思った。二つ返事で、全てお願いします、と答える。かしこまりました。少しお時間かかりますが、すみません、お待ちくださいね。チョビちゃん、検査頑張って……。と、心配をしてくれる受付の女性にキャリーバッグごとチョビを渡した。渡す直前にキャリーバッグの中のチョビを見ると、息は荒く、体色はもうかなり白っぽく変色しており、眼も薄らとしか開いていなかった。この時には、ああもう、ダメなのかもしれないな、と、自らの中に諦念のようなものが生まれたのを覚えている。
検査を行っているチョビを待つ間、また義母が話しかけてくれた。実家のわんちゃんは元気?目は見えないんですけど、元気みたいです。そういえば妹が動物病院に就職したんですよ。あら、そうなの。事務?はい、けど、動物の苦しそうな姿を見るのが辛いって……。そう、動物が好きだと、辛いことも多い仕事よね……。あ、ごめんなさい、電話。うん、うん、今、トカゲちゃんが体調崩しちゃって、そう、動物病院に送ってきたの。ごめんね、お風呂沸かしておいてもらっていい?うん、お父さんも一緒。じゃあ、お願いね。義兄からだろう。ここまでで、動物病院についてからもうすでに一時間近く経過していた。平日の夕飯時に突然呼び出した上に、長い時間引き止めてしまっていたことに気がつくと流石に申し訳なくなってしまい、すみません、長くなりそうなので、先に帰って頂いて大丈夫です。今日は本当にありがとうございました、助かりました。一人だと落ち着いていられなかったかもしれないので、と義母に伝える。全然大丈夫、でも、そうね、何時までかかるか……。本当に平気?帰り、もしあれだったらまた迎えに来るから呼んでね。気をつけてね。トカゲちゃんよくなるといいけど……。はい、またご連絡します。今日は本当にお世話になりました。呼び出しておいて先に帰ってもらうというのもなんだか変な感じだけれど、義母が言っていたように、正直、何時までかかるのか全く検討がつかない。
義母が待合室を去ってから、急に心細くなった。旦那にラインをするが、勤務中なので直ぐに返事はこない。Twitterを見る気力もなく、待合室に貼られている犬や猫のポスター、これで楽ラクお薬タイムなどと書かれた犬猫用投薬補助用品のチラシを、文字を読むでもなく、ただ見つめていた。
暫くして、先程の獣医師に名前を呼ばれる。診察室とは別の部屋に通された。
まずはレントゲン、エコーから見ていきましょう。レントゲンですね……ここにもやもやとしたのがあるの、わかります?肝臓の周りかな。水が溜まってるんです。ちょっと抜いてみたのが、この黄色いの。これで0.1mlくらいかな。あと5ml以上は溜まっています。それと、こっちは無精卵。産まないまま身体の中に留まっちゃったのね。で、一番気になるのが、ここかな。わかるかな。エコーの方で見てみましょう。これが、心臓。とくん、とくんって動いてますね。けれど、この、心臓の周りにね、こう……何か膜みたいなものがあって、これが何かは正直……。ご家族の前でこんなことをお伝えするのは酷かもしれないんですけど、死後解剖してみないことにはわからないものなんです、これ。もしかしたら、ウイルス性かもしれないし、違うかもしれない。ただ、どちらにしてもチョビちゃんの今の状態は、心臓がこの膜に圧迫されてうまく動いていなくて、そのせいで苦しくなってしまっているんですね。もしウイルス性だとしたら、注射、それと一週間のお薬で少しは治まると思うので、とりあえず注射と……、お薬を出しておきますね。
エコーで見たチョビの心臓は動いていた。小さな、小さな鼓動だった。とくん、とくん、とくん。それは、わたしが彼女を掌に乗せた時に感じるそれと同じか、それより少し遅いテンポで、とくん、とくん、とくん。ぼうっとした頭で、そうですね、とりあえず注射を打って頂いて、お薬も……。目の前のキャリーバッグの中にいるチョビは明らかに、もう、息絶える寸前だった。何もかもが無駄だろうと思った。